昭和45年02月16日 朝の御理解



 御理解 第97節
 「神を拝む者は拍手して神前に向こうたら例え槍先で付かれても、後ろへ振り向く事はならぬぞ。物音や物声を聞く様では神に一心は届かぬ。」

 神様へ向かわせて頂く者の是はいわゆる姿勢だと思うですね。 神様に一心に届いて頂くおかげと。私はこの御教えをそう云う意味の、小さいものにせよ、是をずっと云うなら大型と申しましょうかね、大型に是を頂かなければこの御教えは本当に生きて来ないと思うですね。こお九十七節を頂きまして是はどう云う詩でもなければ句でもない様な、なんやら分からん様な事を頂いたのですけれどもね。
 今頃から、溝端なんかに出来ます露草と云うのが在りますね、青い花をつける小さい、露草と云いますね。「露草の露にも似たりみかげかな、はばかりながらしっぽけもなし」と云う様な詩ですね。「露草の露にも似たりみかげかな、はばかりながらしっぷきもなし」と。私はあの、例えばいかに神様に例えばあの拝むと云うても一心不乱にまあそれこそ、人が物を言おろうが、物音がしよろうが、例えば一心不乱になって拝む。
 成程その一心不乱が神様を動かすと云う様な、おかげがまあ頂けますわね。けれどもそれはね、丁度露草の露にも似た様なみかげが、みかげだと云う訳なんです。ね。実際おかげはこう受けた様にまあして居りますけれども、実際根っこを引いてみた所が根っこが無かったと云う訳なんです。根ずりがない。引き応えの在るいわゆる、根ずりの在るおかげと。そう云う信心を例えばこの九十七節から頂いてこそ、私は本当のおかげと云う事になるのじゃないでしょうかね。
 ただこれは御祈念の姿勢とか拝ませてもらうと言う時だけの一心不乱。その一心不乱がやはり、神様を動かすと。そう云う御祈念をするからにはそう云う様な信心も又一心も必要です。信心にはどうでも必要です。いま若い修行生の方達が毎晩、お山にお瀧を頂きに行きます。やはり二時間近く掛かって参ります。ね。真っ青になって帰ります。帰ってくる時には。ね。もうそれこそお水を頂いておる間は、本当にこのまま死ぬかも知れん、と思う位いにあります。それは私は体験があるから。
 それをやはり通り超えますとですね、もう何がなにやら分からん様に感じます。もうそれこそ、一心不乱ですよね。そう云う一つの願行とでも申しましょうか、それが昨日から申します様に、こう云うおかげを頂かんならんと、云うのも在りましょうけれども。いわゆる、神様を頂きたい、神様を本当に、自分の心ではっきり神様をキャッチしたい、本当に神様を信じたい。
 そう言う様な事がそういうまあ、がんぎょうになって現れてくるので御座いましょうけれども、そう云う事も、あながちいけないと云う事ではない、あながちいけないどころではない、ある意味合いにおいては一遍誰でも皆さん一遍ぐらいはね、まあ皆さん山に行かんでも良いからね、寒中に水垢離をとる位いな事は皆さんなさって見なければ本当の事は分からんです。
 もう、例えば表行では水行が一番見易いです。そして、こんなにさばさば気持ちの良い事はない。滝の水なんかの場合違いますからね。私はあのそれをね、願行の為になさってはならんけれども、やはり、あの、ね、先日から申しますように、本当にあなたの御名を真剣に唱えたいと云う意味合いにおいてです、ね、の、行にとても良い行だと思いますね。そう云う、例えば水行をした後にご神前に額ずいて一生懸命又大払いでもあげて御祈念をして御覧んなさい、本当に物音も聞こえんごとある。
 それこそ、槍先で付かれても、もうそれこそ、もう、どん腹が座った様な、御祈念が出来ますようね。そう云う意味にまずこれは頂きますけれども、私はモットモット深いものに、いわゆる本当に教祖様のご真意とでも申しましょうかね、本当の御苦労と云うもの、それを又はそう云う小型的なものから大型的なもので是を頂きとめると云う事はどう云う風これを頂いたら良いかと思う出すね。
 例えばそうして、なら一心を立ててまあ一生懸命御祈念をして御祈念の稽古をさせてもらう其処から、生まれて来るまあおかげと云うものは、それは云うなら露草に打つ露のようなものなんだと。ね。だから神を拝む者は拍手をしてと、云う事は本気で信心させて頂こうと、心にまたは神様に誓わせて頂いてから、者はと頂いたらどうでしょうかね。お道の信心を頂いて本当に人間の幸せを頂こうと。決心がついた。ね。
 そう云う気持ちで神様へ向かわせて頂く者は例え槍先でつかれても後ろを振り向く事はならぬぞと。 物音を聞く様では神に一心は届かんと。本気で神様へ向かって一心をもってです、貴方のおかげをよらなければ、人間の本当の幸せは無いんだとまあ分からせてもろうてから、神様信心を始めたからにはですね、そう云う所が分かって信心をさせて頂くからにはです、ね、
 例えやり先で突かれても、どう云う例えば障害があっても、信心にどの様な障害があってもです、それを、槍で突かれる様な、いわば、障害があっても、自分の信心を後ずさりする様な事があってはならん。または云うなら世間の人の口の端と云うものは、言わば戸が立てられんと言う程しなのですから、世間のものが例えば、そしろうが笑おうがそう云う事が耳に入る位な事じゃほんな事っちゃない。
 だんだん熱心に信心が出来てまいりますとね、ぼうけちゃるとか、様々なあの悪口が言われる時代が必ずあります。ね。そげん迄せんでもと言われる様な時代があります。けれどもそう云う事が本にまあ皆に凝りを積ませてはならんからと云うて、信心を緩める様な事ではねそう云う、話を耳元にも寄せ付けない位いな信心が必要だと云う訳なんですね。そう云う例えば信心にならなければ、神様へ一心は届かん。
 いわゆる、露草の露にも似たりと云うのでは無くてです、本当の人間の幸せの元と、云うならあの世にも持っていけこの世にも残して置けれると云う程しの信心。そう云う信心を頂くと云う事。まあそれを一口に言うたらどう云う事に成るでしょうかね。どう云う信心を言うことになるでしょうか。私はこんなに思う。おかげを受ければ受けるほど、これは、はばかりながらのおかげでも良いのですよ、ね、
 例えば商売をしておる者が商売繁盛のだんだんおかげをいよいよ受けて行く。事業がいよいよ発展して行く。と云う様にです、いわゆる形の上でのおかげですよ。はばかりながらでも結構です。そう云う例えばおかげを頂けば頂くほど、信心が手厚うなると云う信心だと思うですね。ね。商売人で云う、なら手形手形で追われておる時には、日参り夜参り一生懸命させて頂いたが、段々おかげを頂いて金の廻りも良く成ったら、ね、信心の方がだんだん疎かになって、「いや決して忘れておっちゃおりません」と。
 「御用いっちょさせても頂ますけん」と云う様な事で信心が例えばグヅツいて行くならば、もうすでに、槍先で付かれて後ろを振り向いておるのと同じであり、又はもう、忙しさにかまけて信心の方が疎かに成っておる時ですから、是ではもう本当に、露草の露にも似た様なおかげで終わるでしょう。 よし一生は頂いて居ります、その人一生は頂いて居りましても、おそらく子に孫に伝える事は出来ないでしょう。
 そう云うおかげ位い儚いものはないと思う。ね。それこそ、露草の露にも似たようなものだと思う。ね。 私はこの97節をまあ云うなら大型的な頂き方と云う訳なんですよね。もうひとつその向こうの奥の頂き方と云うものが、ね、これは、御祈念をする姿勢拝ませてもらう者の姿勢と云うものではなくて、信心をさせて頂く者の姿勢、本当に信心によって幸せ成らせてもらおうと云う者の姿勢。ね、
 そういう例えば大変なおかげをあの世にも持って行かれる程しのおかげをです、この世に残しておけれる程しのおかげをです、頂かせてもらおうと願う意欲する者の信心姿勢です。それはおかげがですね例えば憚りながらのおかげであってもです、ね。そう云う例えば信心、忙しければ忙しい程、繁盛すれば繁盛するほど、ね、おかげを頂いていけばいくほど、信心がいよいよ手厚うなって行くという信心。
 いよいよ、行き届いた信心が出来る様になると言うこと。ならその、手厚い信心がです、ね、いよいよ行き届いた信心が、これはもう絶対根になるでしょうね。いわゆる根ずりのある信心。ね、引き応えのある信心。根のない野菜を引っ張ってごらんなさい、スポット抜けるでしょうが。牛蒡とか大根とか根の入っとるものはです、なかなか人間の力では引っ張った位いな事では抜けませんものね。
 人がとやこう言う位いな事なら全然問題にしません。根ずりがないから、チョット引っ張られるとスポット抜けてしまう。ちょっとどうこう言われたら迷う。ね、それではね私は一心とは云えない。神に一心は届かんと思う。どうぞひとつ、せっかく信心をされるのですから、ね、まあ皆さんの場合はそう云うはばかりながらと言うおかげも頂いていないですけれどもです、ね。
 神様はですねそう云う決心が付く所から、はばかりながらいわゆる、形に現れて来るおかげを本当に下さると思うのですね。勿論確かめ確かめして下さるでしょう。私共はやはり「のど元過ぎれば厚さを忘れる」といったようなものをお互いが持って居りますから、ね。本当に苦しい時でも、決してこの苦しい所を助けてもらえれば一生忘れませんと、一生信心は続けますと云うとるけれども、続いちゃおりますけれども、云わば段々手厚うなって行くと言う事になって来ない。
 おかげを頂いたらこうも手厚うなって行かないかんでしょうが。所がちょっと楽に成るともう腰掛ける。ね。これでははばかりながらと云った様なその素晴らしい、ね、それこそ、世間にはばかる様なですかね、まあ人をあっと言わせる様なとでも申しましょうかね、やっぱ信心をしよって有ったが、大変なおかげを頂きよりなさるなーと、云う様なおかげは頂けると思う。
 だからそう云うおかげを頂いてです、私共心の上で、ね。おかげを頂けば頂く程、其処から根になって来ると思うのです。頂けば頂く程、信心が手厚うなって行く事を、心のほぞを固めると言う信心。ね。そう云う、私は信心、そう云う一心がです、ね。私は神様に認められた時本当のおかげの印と云うものは見えて、本当のおかげの印と云うものが見て来るんだと思うね。
 だからどうでも一つ、やっぱり私共がですね、本気で信心の稽古をさせてもろうて、本気で一家勢を揃えた信心に成らなければ、まずそう云うおかげの前提としてです、一家を挙げた信心に成らなければ、本当の、はばかる様なおかげは頂かれんと思うですね。見事に生き生きと青々と例えば葉がしこる様なですね、おかげ、いわゆる、誰が見てもおかげと感じるおかげなんです。いわゆる。ね。
 だからそう云うおかげはですね、私はあーそう云う決心と云うか一心が神様に貫かれなければね、おかげを受けられない。家の中で例えば半分の信心であったら半分がそれを打ち消す様な壊すような、態度で在ったり信心で在ったりしたんじゃもういけませんもんね。ですからどうでも家はもう絶対金光様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、一家を挙げてご恩どん忘れちゃならんぞと。
 いよいよ一家をあげて信心が手厚くなって行かなならんぞと家族が言い合える話し合える様な場がです、信心をさせて頂く者の家庭に、生き生きと出来て来なければな駄目です。いや私一生のおかげ、ね、私一代のおかげ位いなら、頂けますかも知れません。ね。それはもう沢山そう云う例はあります。けれどもそれは云わば、はばかりながらであった、と云うおかげではいけん。
 それにやはりそれに対する、引っ張っても抜けん位いな根が入らなければならん。その根が生えると云うのがです、おかげを頂けば頂く程信心が手厚う成って来ると云う信心なのです。だからそう云う信心をですね私共はしっかり頂いて行く、勿論神様はそう云う間違いの無い絶対の物を下さるのですから、ちょっとやそっとでは下さらないのですよね、やっぱり試した上にも試していよいよ間違いがないと、ね。
 思し召されて下さるのでありましょうですから、此処ん所ろはやっぱり覚悟の程がやっぱいるわけなんです。いわゆる神様が、引いたり押したりそして、頂く中にあっても一心と、そこを貫いて行くと云うのが、私は神に一心と云うのはそう云う事だと思う。ね。願行的な信心。一生懸命お参りする信心。ね。例えば、昔はお日切りと云うのが、何処の教会でも特に九州はそれが、あぁその、そう云うお取次ぎをなさる事が、ひとつ流儀になっておったぐらいですね、此処では皆さん知らんでしょう。
 申しませんから。お日切りと云うてからですね、いろんな問題をお願いに行きますと、なら一週間の日を切って、願おうと云う風に、お取次ぎ下さるんです。本当にあのお徳を受けた先生の所ではですねー、小倉あたりではそれが御比例いの元になった。とにかく、「小倉に金神様が出来らっしゃったげなが、もうとにかく、日にち時間を切ってからおかげをやらっしゃるげな」と云うのが評判になったのですね。
 火急の場合なんか時間を切って願われたんだそうです。もう時間がきっちりおかげを頂く。ね。一週間なら一週間の日を切って願われると。一週間目には必ずおかげを頂くと云う新たかなおかげも頂いた。ですからその流れを汲む所では、今善導寺あたりでも親先生があんまり、日切りと云う事をお仰いませんけれども、先代の頃はそのお日切りと云うものがありました。今でもその様な事が残って居る様な所があります。
 お日切りをさせてもらいます、最近なんかはもう、10日間のお日切りをしときましょうちいわっしゃる。10日目に行ったばってんおかげを頂かんけん、まあ5日間お日切りを致しましょうち(笑)もう、何時まっでんきりがなか。そう云うのがまあ流行っておるですね。だからお日切り、日を切って頂いただけは一生懸命参る訳なんです。だから。だからおかげを頂くと、すとっともお礼参りしたらお終い。
 また、お願いがある時にはお参りしてかお日切りをしてもらうといった様な信心です。金光様の信心にもやっぱそう云う信心の時代があったんだけれど、もうそう云う時代はなくならければいけんと思うですね。これは自分の心の中にはですよ、取り次ぐ者がその位いな一つのね、まあ、強力な祈りと云うか祈りの力でおかげを頂くと云った様な事もなからなければ行けませんけれども。
 それが表面に出るような金光教であってはもうならないと思うですね。だからそう云う信心がいかに繰り替えされた所でいかに、それで日を切っておかげを頂いた所でです、続いていないでしょうが。はばかりながらのおかげを頂いたばってん後に根の生える信心をせんもん。 おかげを頂けば頂くほど、信心が手厚うなる。おかげば頂けば頂く程、行き届いた信心が出来る様になる。ね、
 だからやはり其処ん所をです、神様にしっかり願うと同時にですね、やっぱり誓わにゃいかんです。ね。どうぞ、おかげを下されと、おかげを頂けば頂く程、熱心に信心をさせて頂きますという風に、ね、神様がいっぺんには騙されますばって、もうそげに何べんも騙されなさらん、ね。そこに神様が私共を試しなさらなければ成らない事が起きて来る訳なんです。神様としても。
 手始めにちょっとおかげを見せて下さる。まあ、あれだけ一生懸命まあ、しらごつじゅなか、ほんなこつやっぱり云いよる。けれども信心が分からんなりに、云いよるからのど元過ぎれば暑さも忘れる様になる。ね、だから本当に信心が分かれば分かる程、おかげを頂けば頂く程、信心が手厚う信心が出来なければ成らないはずなんです。だからやはり、信心のほうを確かめて行かなければいけんと云う事になるのです。ね。
 同時にです、信心が分かれば分かって行く程です、ね、信心が手厚う行き届いた信心が出来る様になる。例えばそう云う中にあってです、ね、どの様に神様のお試し受けようがです、槍先を付かれようがです、後ろを振り向くだんじゃない、ね、がちゃがちゃ言う者があってもそう云う者は耳元にも寄せない位いなですね。信心が、いわば信心が出来る事によってです、その一心が神様に届く。
 そこから頂けれるのがです、見事な葉の、葉も茂る所のいわばおかげ。枝も栄える葉も茂るおかげなんだ。それに、ね、いよいよ行き届いた信心と言う事によって、いよいよそれが根になって入って行く。ゆるぎがない。どんなに例えば、なら大風が吹いても倒れん位なです、揺るぎない信心、そう云う信心を私は一心と。言う風に頂かなければならんと思うのですよね。
 ですからここん所、例えば御祈念の姿勢という上においても例えば九十七節はその様に頂かなければならないと同時に。これは御祈念の姿勢だけではなくて、信心をさせて頂くものの姿勢、ね。いよいよ心の中に神様を頂き続けさせて頂く者の姿勢、がその様な、神様がご覧になっても、もうこれなら大丈夫と云うて下さる程しのですね一心を立てての信心でありたいと思いますね。
   どうぞ。